ローマが勢力を拡大する以前、中部イタリアにはエトルリア人の12都市国家があった。金属加工と海上交易に長け、後のローマ文化にも影響を与えた。エトルリア語の文字と音価はおおむね読めるが、語彙と文法の理解は現在も部分的である。
エトルリア語は、紀元前700年頃にエウボイア式ギリシア文字を借りて表記された。これがエトルリア人を経由してローマに伝わり、今あなたが読んでいるラテン文字の元になる。アルファベットは完全に解読されているので、どんな碑文も音声化できる。問題は文字の背後にある言語のほうだ──エトルリア語は印欧語族でも、セム語族でも、イタリック語派でもない。広く認められている近縁言語は、アルプスのラエティア語とエーゲ海レムノス島で紀元前6世紀のカミニア碑文に残るレムノス語のみで、これらを合わせてテュルセノイ語族と呼ばれる。
現存碑文は約13,000点、その大半は短い墓碑で、「ここに誰が葬られている」「何歳だった」「親と配偶者は誰か」を記すだけだ。mi larthia「私はラルトのものだ」のような決まり文句は分かる。だが名前・家系・数を超えると途端に難しくなる。長文資料はわずかしかなく、それが解読の鍵を握る:
- 『リーベル・リンテウス』(亜麻布の書)── 現存最長のエトルリア語テキスト。約1,200語の儀礼暦が紀元前3世紀に亜麻布に手書きされ、後にプトレマイオス朝エジプトで切り刻まれて女性のミイラの布として再利用された。現在ザグレブ考古博物館蔵。
- 『カプア板』── テラコッタ板に約390語の儀礼指示(紀元前470年頃)。
- 『ピュルギ金板』(紀元前500年頃)── ピュルギ港から出土した3枚の金薄板。エトルリア語2枚・フェニキア語1枚で、女神ウニ/アスタルテへの奉献文。1964年発見、語彙確認の決定的資料。
- 『コルトナ板』── 1992年にコルトナ近郊で発見された約200語の青銅板。土地売買契約と見られる。
分かっている部分も意外と多い。1から6を表す数詞 thu, zal, ci, huth, mach, śa は知られているが、ラツィオ州北部のトゥスカニアで出土した唯一の象牙のサイコロ一対が、数字を点ではなく語で書いているため、どの語がどの数字に対応するかをめぐって学者の意見はいまも割れている。エトルリア語は名詞を格変化させ(属格 -s/-l、奪格 -is)、動詞を時制変化させ(過去 -ce、現在 -e)、名詞句接辞を積み重ねる独特な体系を持つ──属格に属格をさらにつけられる。確実に解明された語彙は約250語、それ以外、特にリーベル・リンテウスの儀礼専門用語の大半は文脈推定に頼っている。
現代エトルリア学を実質的に確立したのはイタリアの考古学者マッシモ・パッロッティーノ(1909–1995)である。1942年初版、1984年の第7版まで改訂を重ねた著書『Etruscologia』で、ギリシア・ローマ古典資料を直接の翻訳補助としては使わず、エトルリア語内部のパターン照合(組合せ法)によって一歩ずつ進む方針を確立した。
紀元1世紀にはエトルリア語は絶滅へ向かっていた。皇帝クラウディウス(紀元前10–紀元54)はエトルリア史20巻『テュッレーニカ』(散逸)を著して言語の保存を試みた最後の知識人で、「最後にエトルリア語を読めた人物」と呼ばれることもある。彼の死とともに言語は記憶から消え、ローマに「ローマであること」を教えた文明のフィールドノートとして、13,000の碑文と一つの巻かれたミイラだけが残された。