1887年7月、ワルシャワに住む若い眼科医が、自費で40ページの小冊子を出した。ペンネームはDoktoro Esperanto──「希望する者という名の博士」。書名はLingvo Internacia(国際語)。やがてこのペンネームは言語そのものの名となり、L・L・ザメンホフは、それまで誰も成し遂げられず今も誰も並ぶことのない偉業を達成した。普通の人々が「実際に話したい」と思う人工言語を作り上げたのだ。
ザメンホフが育ったビャウィストクは、ロシア統治下の多民族都市で、ユダヤ人・ポーランド人・ドイツ人・ロシア人・ベラルーシ人が隣り合い、互いに不信を抱きながら暮らしていた。彼は後に「人類の憎悪の根は言語の混乱(バベル)にある」と確信し、中立の共通語があれば人々は対等な立場に立てるのではないか、と書いている。彼にとって文法設計は、政治的理想と切り離せない営みだった。
設計はきわめてシンプルだ。エスペラントの文法は16条の例外なき規則に収まり、葉書一枚に収まると言われる。
- 名詞は必ず-o、形容詞は-a、副詞は-e、不定詞は-iで終わる。
- 複数は常に-j、直接目的語は常に-nを取る。
- アクセントは必ず後ろから2音節目。
- 動詞は人称・数によらず、時制(-as / -is / -os)と法(-us / -u)だけで変化する。
- 語は語根+接辞の膠着で作る。mal-は反意(bona「良い」→malbona「悪い」)、-ej-は場所(lerni「学ぶ」→lernejo「学校」)、-in-は女性を表す。
語彙は約75%がロマンス系、20%がゲルマン系、残りがスラブ語とギリシャ語。これは「ヨーロッパ系だが、特定の大国に偏らない」意図的な配合だ。
1905年、フランスのブローニュ=シュル=メールで第1回世界エスペラント大会が開かれ、20カ国から集まった688人の代表は初対面で互いに理解しあった。1920年代には国際連盟がエスペラントを作業言語として採用することを真剣に議論したが、フランス語外交の威信を失うことを恐れたフランスの拒否権で否決された。ローマ教皇庁はエスペラントで放送し、Google翻訳は2012年に対応言語に加えた。
「ビャウィストクの住民は四つの異なる要素から成っている。ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、そしてユダヤ人である。そのいずれもが別々の言語を話し、互いに敵意をもって接していた」──ザメンホフがニコライ・ボロフコに宛てた1895年の手紙より(原文はロシア語、エスペラント訳は1896年のウラジーミル・ゲルネットによる)
20世紀の歴史はエスペランチストに過酷だった。ヒトラーは『我が闘争』でエスペラントを「ユダヤの陰謀」と非難し、ザメンホフの3人の子はホロコーストで殺された。スターリンは1937〜38年の大粛清でソ連のエスペランチストを「コスモポリタンのスパイ」として銃殺・収監した。それでも運動は生き延びた。
現在、エスペラント話者は推計約200万人、そして人工言語としては唯一約1000人の母語話者──denaskulojと呼ばれる、家庭でエスペラントを母語のひとつとして育った人々──を持つ。Duolingoのコースだけで100万人以上が学習している。世代を超えて伝承された人工言語は、エスペラント以外に存在しない。
ザメンホフは「母語を置き換える」とは決して言わなかった。彼が望んだのはdua lingvo──第二言語──であり、誰にとっても等しく「外国語」であることで、交渉の場で誰も母語話者特権を持たないようにする、という発想だった。140年経った今も、運動は小さいが、中立で、希望に満ちている。創始者が署名した名のとおり、いまもDoktoro Esperanto──「希望する者」──のままだ。